関西常磐津協会のあゆみ

75周年を迎えた関西常磐津協会。先人方の偉業を再認識し今後の糧にするため、協会が歩み出した動機と背景を、時代を遡って考察します。創立以後の活動や関係者を十分に記述できなかったことをお詫び申し上げます。

竹内有一京都市立芸術大学 准教授関西常磐津協会設立七十五周年記念演奏会 パンフレット(平成28年)所収

明治以前の常磐津と関西

関西でいつでも常磐津節が聞けるようになり、専業の演奏者が関西に定住するようになったのは、いつ頃のことだったのでしょうか。

江戸時代に遡って歌舞伎番付を調査すると、寛政12年(一八〇〇)閏4月に京都南座で長唄の鈴木万里が「関の扉」を語った古例、文政3年(一八二〇)から5年に四世常磐津兼太夫・四世岸沢式佐連中が大阪・京都などへの長期歌舞伎巡業で評判を得た事例が特筆されます。概して、幕末以前に関西の歌舞伎で常磐津節が上演された機会は少なく、しかも江戸在住の常磐津演奏者、または関西在住の長唄や義太夫節の演奏者が、常磐津の少数の定番曲を演奏したに過ぎなかったようです。

明治初期には、名古屋岸沢派の玉沢屋一門と東京の六世岸沢式佐が大阪の歌舞伎に数回出演、明治23年には京都で、八世常磐津小文字太夫(のち六世文字太夫)、宮古路国太夫半中(後の初世常磐津林中、東京在住)がそれぞれ歌舞伎のタテ語りを勤めましたが、継続的な出演には至りませんでした。

明治31年(一八九八)、関西に常磐津ブームが起こります。2月の大阪の歌舞伎に八世小文字太夫が七世式佐と5年ぶりに来阪し出演、3月には初世林中も出演します。さらに林中は、7月に大阪、8月に京都で、それぞれ1週間弱の常磐津演奏大会を興行し大成功を収めました。林中は、10月から翌年3月まで大阪と京都の歌舞伎に出勤、この長期滞在が関西に常磐津を広める契機になったとみられます。この後、林中は明治36年までに5回、六世文字太夫は明治40年までに4回、関西の歌舞伎に出演しました。

こうしたブームの影響ゆえか、明治末期までに数名の有力者が関西に定住します。東京から出身地大阪に戻った三世常磐津松太夫、その子の三世常磐津松蔵(のち四世国太夫)、東京出身ながら大阪に移住した二世岸沢文字八(のち二世林中)。いずれも林中や六世文字太夫の薫陶を受けた人々でした。

常磐津を関西に普及させた人々—大正前後—

初世林中の死後、複数の有力者が関西の歌舞伎に出演を続け、常磐津節が関西に根付いていきました。以下、七世文字太夫と三世松尾太夫以外はすべて関西在住者です。

二世常磐津林中(二世文字八)は、三味線から太夫に転向、明治41年(一九〇八)から大正7年(一九一八)まで11回、関西の歌舞伎でタテ語り。相三味線は、二世文字兵衛、三世八百八(三世文字兵衛)、三世文字八。大正6年(一九一七)から京都美術倶楽部で「常磐津研究会」を数回主催。関西における常磐津の定期演奏会では最も早い事例とみられます。

二世林中は40歳で急逝しますが、その甥の三世常磐津文字八(三世林中)が活動を継承します。三世文字八は、大正元年(一九一二)から9年まで関西の歌舞伎でタテ三味線。二世の没した翌年、大正9年から年忌ごとに師の追善演奏会を主催、昭和2年(一九二七)から「常磐津演奏会」「常磐津会」を京都で開催しました。常磐津林之助も同時期に関西の歌舞伎でタテ語りを勤めた人です。

三世常磐津松尾太夫は、明治41年(一九〇八)から昭和13年(一九三八)まで、関西の約60興行の歌舞伎でタテ語り。東京在住ながら、関西に常磐津を定着させた陰の功労者といえます

戦前の関西の歌舞伎で最も活躍した太夫は、岸沢系の二世常磐津文賀太夫です。大正11年(一九二二)から昭和18年(一九四三)まで京阪神の百六十以上の興行でタテ語り。相三味線は、七世岸沢式佐・四世岸沢仲助・二世常磐津理喜蔵(のち半中)など。

文賀太夫のワキを勤め、関西でたくさんの門弟を育てた三世常磐津三都太夫は、大正12年の関東大震災以後、夫人の常磐津小清とともに東京から大阪に拠点を移しました。常磐津文糸も震災後に東京から京都に移り、夫人の常磐津都とともに、祇園甲部の指導者として地歩を固め、多くの門弟を輩出しました。七世文字太夫のワキを勤めた常磐津鳴渡太夫も、震災後に東京から大阪へ移住した一人です。

関西での常磐津節の普及を根本から支えたのが、当時の家元、七世常磐津文字太夫です。関西では、大正10年(一九二一)以後に歌舞伎のタテ語りをしばしば勤め、「常磐津会」という演奏会の主催に力を入れました。この会は、関西での伝承の構築と門弟育成を目的にしたとみられ、大正10年10月から昭和14年(一九三九)頃まで、大阪と京都で約20回開催されました。これを発展的に継承したのが、関西常磐津協会の公演会であったと思われます。また、大阪三ツ寺に「家元出張所」が設けられました。同会主催や師範状発行の便宜のためとみられますが、家元にとって関西での活動がいかに重要であったかがわかります。

その頃の東京では、常磐津節の発展と派閥を超えた協調を目的として、昭和2年(一九二七)に常磐津協会(第一次)が発足し、七世文字太夫が会長に就任しました。関西在住者も会員となり、関西からは林之助・鳴渡太夫・文糸・三都太夫・文字八が評議員を勤めました。

関西常磐津協会の創立

昭和16年(一九四一)2月22日、関西常磐津協会が創立されました。初代会長(理事長)は、七世文字太夫でした。創立に尽力した準備委員を会長が表彰した感謝状(昭和18年1月28日発行、常磐津文之助宛、都㐂蔵師所蔵)をみると、創立日や準備委員の存在が判明します。感謝状を贈られた一人、文之助は当時30代なかば、つまり若手が委員となり大仕事を進めたのです。

前述のように、東京では14年前に常磐津協会が創立され、関西の有力者もその評議員に加わっていました。しかし、世代交代が進む中で、次世代を担う関西の若手が、地元に新組織の協会を設置する意志を強く抱いたのではないでしょうか。その熱い希望が家元の心を動かし、家元の協力が得られたのだと想像します。大正頃から関西で常磐津が隆盛し、歌舞伎出演や演奏会で、複数の派閥の多くの演奏者が競って切磋琢磨する中、相互の協調と融和、さらなる発展への期待が、協会創立の動機であったと思われます。

創立の翌月、3月26日に大阪大手前軍人会館で創立記念公演会が開催されました。当時の番組(都㐂蔵師所蔵)によると、午後2時開演、9時半終演予定、昼の部10番、夜の部10番でした。出演者の顔ぶれは、家元直系だけでなく、岸沢派、勘右衛門派その他をカバーし、協会の創立にふさわしい陣容でした。各出演者について、常磐津芝喜作師が、当協会機関誌『つどい』第28号(平成19年1月)で貴重な思い出を綴っておられるので、ぜひご覧下さい。

公演会と協会歌

協会主催の公演会(演奏会)は、都㐂蔵師所蔵の番組によると、第10回が昭和29年(一九五九)9月、京都での開催でした。第18回・第19回が32年9月、大阪と京都での開催で、このとき協会歌「菊の寿」が初演されました。第50回の節目は、昭和58年(一九八三)でした。

公演会の開催頻度は、時期により変動がありました。一年に三回以上開催される場合もあり、開催されない年も稀にあったようです。開催地は、古くは京都と大阪で連日の開催とする場合が多かったようで、次第に、京都か大阪で一日だけの開催になりました。

歴代理事長

現家元の九世常磐津文字太夫師の御教示を交えて記します。二代以降の理事長は、すべて関西在住者です。

〈初代〉七世常磐津文字太夫
昭和16年(一九四一)から26年(死没)までの在任。
〈二代〉三世常磐津文字八
昭和26年(一九五一)から36年までの在任で「委員長」を名のりました。
晩年に三世林中を襲名、昭和47年死没。
〈三代〉常磐津文蔵
昭和36年(一九六一)から50年(死没)まで在任。
七世文字太夫の次男、八世文字太夫の弟で、家元分家として大阪に在住。
はじめ豊之助を名のり、昭和24年に文蔵を襲名。
〈四代〉常磐津綱太夫
昭和50年(一九七五)から平成3年(死没)まで在任。
三味線方として文七、文七太夫を経て、通算では六世にあたる綱太夫を襲名。
〈五代〉常磐津一巴太夫
平成3年(一九九一)から26年(死没)まで在任。
平成5年に社団法人への移行を実現させました。
平成7年に常磐津節太夫方では初めての重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。
〈六代〉常磐津都㐂蔵
平成26年から在任。
文糸・都の孫、文之助の子息にあたります。

参考文献

  • 竹内有一編著『常磐津節演奏者名鑑』(既刊5巻)、常磐津節保存会、平成24~28年。